
臨時災害FM「りんごラジオ」でインターンシップとして働く大学生の天野さん。大学は静岡に通っている。ゼミの教授を通して知り合った山元町。最初は通うだけだったが今は山元町の知人宅に居候し、ラジオ局で情報発信をしている。なぜ山元町に惹かれたのか。自身の思いと現実。今後の展望などを2日にわたって伺った。(2017.2.17,18 聞き手 橋口博幸)
やったぜー!!
徳島県の小松島市生まれです。小松島市は徳島市のすぐ南です。小中高と公立で高校卒業まで徳島にいました。私の住んでいたところはすごく小さな町で、中学も1クラスしかなかったんです。私がいた頃で全校生徒が80数名しかいなくて、この春に統廃合してなくなっちゃいました。
高校は阿南市にある進学校に行きました。高校生活では放送部と演劇部の二つを両立していました。学校によっては放送演劇部というのもあるそうですが、うちは別の部活でしたので、すごく大変でした(笑)。
というのも私は入学時には成績が良くて特進クラスに入れたんですけど、学力が追いつかないとか雰囲気が合わないということがあって、1年生の夏頃にはクラスが嫌になっていて勉強も手につかない状況になってしまったんです。結果として部活に逃げていたんですね。部活を一生懸命やって、成績が届かなくなって特進クラスを除籍になって、普通科クラスに行くことになりました。
部活には尊敬する先輩もいっぱいいて、生き生きと楽しくできていました。特進から落ちたことも一瞬はショックでしたけど、「なんてことないさ」と思っていました。
私は両親が歳をとってからの一人娘だったので、かなり大事に育てられたという自覚があります。特進から落ちたことにも寛容でしたし、私が苦しんでいたことも分かってくれていました。ありがたいですね。
演劇では脚本も担当していましたが、すべて創作でやっていました。内容としては私にとっては自己の投影でしたね。当時私が悩んでいたことって進路だったんですが、進路のことや自分たちの生活のことなんかを脚本に起こして、生活を投影した創作台本をつくっていました。とは言っても高校演劇の創作台本って往々にしてそういう場合が多いんです。私は演劇は演出ばかりやっていて舞台には出ていませんでした。
放送部の活動としての定時放送はお昼の校内放送だけでした。そして放課後集まって発声練習を欠かさずやっていました。だから私は1日2回(放送部と演劇部)発声練習をやっていたんです。
放送部って大会があるんですよ。放送部の甲子園と呼ばれていたのが「NHKコンクール(Nコン)」っていうのがあって、最終舞台が紅白をやっているNHKホールなんです。あそこでアナウンスの朗読できる人はほんとうに尊敬されます。「Nコン行ったの?! すげーじゃん!」みたいな。
部門は読む部門と作品部門の2つに分かれていて、読む部門はアナウンスと朗読の2つに、作品部門はテレビドキュメント、テレビドラマ、ラジオドキュメント、ラジオドラマの4つに分かれています。作品を出す場合は大会前は作品制作を一生懸命やって、朗読、アナウンス部門に出るんだったら原稿を書いて読む練習をするっていう感じですね。
私は賞状、放送部の方が多かったんですよね。ラジオドラマで賞状2枚もらって、テレビドキュメントで賞状1枚もらったかな。あと朗読でも1枚もらいました。私もNコン行ったんですよ。私は勉強がダメで部活を一生懸命やっていたので、どうしてもNコン行きたかった。だから数打ちゃ当たるじゃないけど、高3の時は部として全部門に応募したんです。それで朗読が県で1位、テレビドキュメントも県で1位、後輩がつくったラジオドキュメントに2作品が第2位で優秀賞でした。受賞が決まったときは「やったぜー!!」ってなりましたよね。
めっちゃ楽しかった
元々メディアに興味があったんですよね。それで放送部にも入っていました。きっかけを強いて言うならば、両親が働きに出ていてカギっ子だったので、テレビをずーっと見ていたんですよね。その頃から作品つくったり、映像つくるのはいいなあ、面白そうって思っていました。
進路を決めるときに一つ考えておかなきゃいけなかったのが、親から「どうしても徳島に残って欲しい」って口酸っぱく言われていたことだったんです。でも徳島県の国公立の大学って90%理系の大学。10%しか文系が入れるところがなくて、進むところないなと思っていたんです。自分の関心のある分野って考えたときに、メディア系って面白そうだなと思っていたら静岡大学の情報学部が(候補に)出てきたんですよね。それで静岡大学に進学しました。静岡大学は静岡市にある静岡キャンパスと浜松市にある浜松キャンパスがあるんですが、私は浜松キャンパスに通っています。親からは県外に進学することは認めてもらったんですけど、就職は県内にして欲しいって強く言われています。進学の条件みたいな感じです。
現在、静岡大学情報学部情報社会学科の4年生です。私の学部の大きな軸二本が、メディアとコミュニティなんですね。ですからコミュニティを主として勉強するか、メディアを勉強するか、もしくは両方を勉強するかに別れます。私はどちらかというとコミュニティ寄りですね。ただ入学したときにはメディアに興味があったので、その点が「りんごラジオ」で学びたいという原動力にもなっています。りんごラジオの活動はメディアもコミュニティも両方あるので、うちの学部としては最前線の現場なんですね。
大学2年生までは大学祭実行委員会(学祭委員)一色でした。めっちゃ楽しかった。超好きだった。2年の時には学祭員の副委員長をやっていました。同期が良いやつばかりで、別にそんなに一生懸命やる必要はないんですけど、毎日足繁く委員会室に通って夜10時くらいまでみんなで話したり仕事したり、っていうのがすごく楽しかったですね。
今、無趣味がコンプレックスなんですよね。「することないなー」って。そういうときは寝ます。あとはぼーっとテレビを見ています。三つ子の魂百までじゃないですけど、カギっ子の頃の習性がそのまま残っているんだと思います。
なんてすごい偶然だろう
山元町との関わりは3年生の2015年の夏に研究室配属になったことがきっかけです。12月頃に初めて山元町に来ました。うちの研究室の先生が震災以降山元町に支援に来ていて、先生が活動に来るときは学生に声をかけて、「行きたい」と言った学生がいたら先生と山元町に来させてもらうんです。それで私は2015年の冬に初めて来ました。先生の車に乗ることができるのが3人までなので、ゼミ生3人と先生で来ました。山元町にたくさんサークルがあるんですけど、そのうちの一つの「パソコン愛好会」のティーチングアシスタントのボランティアをさせてもらいました。
そのときは「想像以上に復興しているな」という印象でした。海沿いを走ってもテレビで見ていた瓦礫とかはないし、道も綺麗に整備されているし。でもあのとき見せてもらった場所がそうだった、というだけなんですけど。先生がこちらに来るのが4ヶ月に1回とか半年に1回くらいなんですけど、その度に連れてきてもらっていました。被災地について勉強しなきゃいけないとずっと思っていたので、(山元町に来る機会を)逃す手はないなと思っていました。
今、ホームステイさせていただいている岩佐家のお父さんが、週末になると気をつかっていただいていろんなところに連れて行ってくださるんです。その際に山元町以外の、例えばお父さんが震災時に勤めていた石巻の雄勝の中学校での状況を話してくださったり案内していただきました。そのとき初めて大川小学校のことなども教えていただきました。
岩佐家には去年の9月から居候させてもらっています。その間ずっといるわけじゃなくて、学校との両立があったので静岡との行ったり来たりでした。9月は1ヶ月滞在して10月と11月はつきに1週間ずつ、12月は1ヶ月いて、1月は浜松、今月と来月(2月と3月)はずっと山元町にいます。
居候生活は新鮮ですよ。自分がカギっ子だったので、両親がずっと家にいるという経験をしたことがなかった。「いわゆる普通の家庭はこういう感じなんだ」と思います。
ストーリーとして語るなら、高校で放送部をやっていて自分で自信を持てる程度の実績を得られたこと、そしてメディアにも興味を持っていたので情報学部に進学して、メディアだけでなくコミュニティも勉強したっていう感じです。りんごラジオは最前線の現場であり、そこで自分が勉強ができるというのはかなりすごいことだと思うんです。
りんごラジオのことは授業で紹介されて知りました。メディア系の授業の中で震災は大きく取り上げられる中、メディアが震災をどのように伝えたか、というテーマの中でりんごラジオも紹介されました。最初聞いたときは「すごいな」という印象だったんですけれど、研究室に配属されたあとに、うちの先生が山元町と関わりがあると知り「なんてすごい偶然だろう」って思って。何回か山元町に来るうちにりんごラジオの(伊藤)若奈さんに、「インターンしてみたら」と言っていただいて、去年の9月からさせていただくことになりました。
いつも戸惑っています
私が山元町に対して何か「こうした方がいい」っていう提案などをすることは、自分自身に評価する明確な指標を持っていないからできないと思っています。ただあるがままを知って「そういう状況なんだ。そういうこともあるよね」っていうパターンが多いんです。でも自分ではそのような姿勢を変えたいとも思っています。
そのようにいろんなことを受け止めようと思うようになったのは、最近いろんなところで言われる「多様性」という考え、いろんな考え方とか文化を受け止められるようになろう、っていう考えが素敵だなと思うようになったのが最初でした。できるだけいろんな状況に対して、「そういう考え方もある」「そういう状況もある」というように受け止めていくようにしていたんですけど、だんだんだんだん波風が立たなさすぎて、興味が薄れていくというか、感性が鈍ってくるというか、最近そういうふうに危機感を覚えています。
無趣味がコンプレックスって言ったと思いますけど、自分が人間的につまらなくなっていく気がしているんです。りんごラジオで働けていることはものすごく良い経験ですし、自分も多くを勉強できるし吸収できると思っているんですけど、どこかそういうふうにすごく冷めた自分の存在を嫌に思っているんです。初めてりんごラジオを授業で聞いたとき、そしてゼミの先生がりんごラジオと関係があると聞いて、「是非りんごラジオで勉強したい」とストレートに思ったことは間違いなくて、それだけは確かなんです。
私にとって「被災地」という強烈なインパクトは、山元町を特徴付けるものではありません。それはきっとゼミの先生のように震災直後にボランティアに入り現状を目の当たりにした人と私は違うところだと思います。入って1ヶ月くらいの時は、それが決定的な「断絶」だと思っていました。
私が幸いだったのは岩佐家で生活する中でいろいろと話を聞かせてくれることです。「あのときは水が出なくて、あそこの井戸で水をくむために歩いて行ったよ」とか「スーパーに品物がなくて角田の方まで行ったよ」とか「ご遺体を探して体育館を回ったんだよ」というお話しを聞くことで、「そうだ、ここは大変なところがあったところなんだ」っていうことにふと気付くことができるんです。
そういう話を聞いたときは何も言えません。「私は被災体験をしていないから」「私は被災当時のことは知らないから」と言って何も言わないのは壁をつくっちゃうことだと思うので、「人と話す時に相応しくないな。私はやりたくないな」と考えているんですけど、なんて言ったら良いか分からない。「大変でしたね」という言葉もはばかられるし、なんて言葉を発したら良いんだろうって、初めて山元町に来たときから今もずーっと思っています。
ラジオで話していると、ふとしたときに震災のエピソードが出てくるんですけど、そのとき私は必死に頭で「このあとコメントなんて言ったら良いんだろう。どう言えばいいだろう」って考えていて、でも結局「大変でしたね」というようなことしか言えないんです。それしか術を持っていないのでそれでいいとも思うんですけど……。
対面して話を伺っている時ってこちらの「そうなんですね……」という言葉に相手が何を読み取るんだろうって考えるんですよ。分かりやすいリアクションや言葉を出して、相手が認めてくれるようなものがあれば「私の対応は間違っていなかった」って安心できるんですけど。でもきっとそれは「私が傷つけたくないし」「私も傷つきたくないし」ってことだと思うんです。一般的には、それぞれのきつく厳しい体験が会話に出てくるっていうのは、親しくならないと出てこないと思うんです。でも山元町にいると日常の中でそういう話が出てくる。そういうときに、すっと心が近寄る感じがするんです。
近寄る感じがしたときに「怖い」とも思うし「どうしたら良いんだろう」とも思う。そういうことに気付く体験は大学などの生活では体験できないと思います。こういう体験ってあんまり話せないですし、りんごラジオのスタッフさんにも相談しづらいし、いつも戸惑っています。何かしら答えを出さないといけないわけじゃないし、答えを出しちゃうとそれはそれですごくつまらないものになっちゃうと思う。それはパターン化してしまうと思うから。でも落ち着きたいという想いはあります。一つ方法論が見つかった方が精神的には落ち着く気がするけど……。
自分の軸
今後はまず徳島で就職するつもりです。自分の軸は地元にあるし、大学で勉強している間も地元に戻る前提で勉強しているので。山元町で学べることはたくさん学びたいし、自分のできる限りで何かお手伝いできることはお手伝いしたいけれど、今の私の状況では今後も住むというのはないですね。仮に親に「どこに住んでも良いよ」って言われていたら違うかもしれません。でも親もいろいろあって帰らなきゃいけない感じなので、徳島に帰ろうと思っています。
就職に関して、自分の希望の地域に関われるようにしたいって思っています。だけどそれって関わりたいと思っているけど、山元町での経験をして、自分に(地域と関わることは)向かないんじゃないかなと思ったりしています。最初からうまくできる人はいないと思うし、それはちょっとずつ学びながらだとは思うけれど。最初はりんごラジオのような地域メディアを(就職先に)考えていたんですよ。でも次第に無難な地銀とか生協組合とか小売店とか、そういう就職先を調べていたんです。ここ最近またメディア系を調べ始めましたけど、まだまだ迷っています。
*追記
現在彼女は静岡大学で卒論に励みつつ、徳島での就職活動を行っている。(2017.7.15 記)