イタリアントマト栽培・販売の「株式会社 スルーエイジ」を経営する。東日本大震災で大きな被害を受けた山元町で何か産業をつくろうと、農業は未経験ながらもイタリアントマトの栽培を開始。トマト栽培のシーズンオフにはトマトジュースを販売し、徐々に軌道に乗ってきた。 大学時代は神奈川で過ごして帰郷したUターン組。今では山元町を盛り上げる若手の一人として精力的に活動する横野氏に、これまでの経緯と思い、そして今後の展望を伺った。(2017.2.14 聞き手 橋口博幸)

悩んでいた時期なんですね

両親も僕も、生まれ育ち仙台市内です。高校までは市内にいましたけど、化学に興味があったので神奈川県の東海大学理学部化学科に進学しました。学生時代はあまり勉強をせず、中学校からはじめたバドミントンのサークル活動ばかりやっていましたね。サークルの立ち上げから関わり、運営までやっていました。そのときの先輩後輩は今もつながっています。

関東に行ってずいぶん視野が広がりました。でも、ずっと進路などで悩んでいた時期なんですね。それで1年休学したりもして。今考えても当時のことは自分でもよく分からないんです。なんだったんだろうって。それで大学に7年行って、卒業研究までやったんですけど他の単位がとれないこともあって、結局辞めたんです。自分でも少し恥ずかしいんですけど。

大学を辞めるにあたって、関東での就職も考えましたけど中々見つからず、27歳の時に仙台に帰ることにしたんです。母親の経営する会社を手伝いながら、同時に東北福祉大学の福祉関係の仕事を手伝うことになりました。

実践の場で学ぼう

最初、大学の学食運営の会社に社員として入りました。本校舎とは別に、10年くらい前にできた福祉大学駅に併設して、ステーションキャンパスっていうキャンパスがあるんです。でも「学食がない」っていう話になっていました。(ステーションキャンパスは)本校舎から少し離れていて、歩いて20分くらいかかるんですね。

それで学食運営が事業として立ち上がりました。学食っていっても木の内装でおしゃれな感じで、夜も営業していて、近所の人たちもみんな来るんです。昼間は学生でごった返すんですけど、夜はお酒も出すのでサラリーマンとかが来るような学食。その頃、かねてからの計画だった「障害者支援の事業もやろう」という話が出ていて、ちょうど僕が(仙台に)戻ってきていたので関わるようになりました。

東北福祉大学は学校をあげて発達障害の人たちの就労支援をやっていたんですね。それで学内に特別支援教育研究センターというのをつくっていました。小学生、中学生向けのソーシャルスキルトレーニングというのを一つ学校の柱としてやっていたんですが、そこの外部講師として関わることになりました。

もう一つは先生たちが独自にやっている20歳くらいの大学生や社会人向けの就労支援を、「実践社会塾」という私塾としてやっていました。その事務局をやることになりました。

こういう苦労があるのか

それまで発達障害についてまったく知らなかったんですけど、ちょっとずつ勉強していきました。やっているうちに割と面白くなってきたんですよね。「こういう苦労があるのか」っていうのも分かるようになってきました。そういう仕事を5年くらいやっていたんです。

それまでアルバイト以外は就職したことはありませんでした。そんな中で働き出したから事務局の仕事は大変でしたけど、社会塾の仕事は面白かった。高校生や大学生を対象に、代表の伊藤さんをはじめとした「仲間」たちの経営者の方々に講師になってもらい、「実践の場から学びましょう」ということで始めたんです。発達障害の子たちって就職の時点での苦労がすごく多いんですね。

勉強はできるし知的には問題ない。でもコミュニケーションや社会性の障害だと言われているので、いざ就職っていう段になると、うまくいかなかったり仮に就職しても続かなかったりするんです。だからこそ実践の場で学ぼうということを始めたんですね。座学もあるんだけど職場見学行ったり、産直市を企画して開催したりしたんです。産直市っていうのは、自分たちで野菜などを知り合いから仕入れてきてそれを売るっていうものでした。

「もの」を売るという経験

一番(子どもたちの)反応が良かったのが産直市だったんですよ。実際にお客さんとやりとりをして、野菜とか魚とか「もの」を売るという経験が、本人たちから「こういうことやったことなかった。すごく勉強になった。面白かった」っていう意見も出たり、実際にそういう仕事をやってみたいという学生も出てきたんですよね。コミュニケーションは苦手なんだけれども、工夫すればお客さんと関わることもできた経験になってくれたんだと思います。

身の振り方をどうするか

実践社会塾が休止したのは震災がきっかけです。先生が体調崩されたこともあって、2011年度で終わっちゃったんですね。その頃には福祉関係の仕事を続けるのもいいなあと思うようになってきていたんです。そうしたらいろいろ声がかかるようになってきて、一時期本気で就職も考えて、面接を受けたりしていました。それが2011年の夏くらいですね。身の振り方をどうするかっていうのもを考えていた時期で、ちょうどその頃、今の仕事(スルーエイジ)の話が出てきたんです。

もともと母と伊藤さんが中学校の同級生なんです。伊藤さんが学食運営をするために同世代の仲間に声を掛けて株式会社を立ち上げました。団塊世代の人たちに「若者の育成とか世の中の役に立とう」っていうことで声がけして集まってもらった会社です。それで社会実践塾に、その団塊の仲間たちを講師として呼んでいました。

その中の一人に、母や伊藤さんの同級生で、山元町在住の千石さんという方がいらっしゃったんです。その方との出会いが山元町に来るようになったきっかけですね。でも年に何回かしか千石さんとは会わないし、宮城県の南に山元町っていうところがある、くらいしか知りませんでした。

美味しいトマトを食べたいのよ

2011年の暮れくらいに、団塊の仲間の人たちと集まって忘年会をやったんです。その頃には仙台は震災の影響もだいぶ落ち着いてきていて街中は平常運転になっていました。でも「山元町はどうなの?」っていう話題になったんです。すると「いやあ、南部はひどいんだ。相当やられて、人もだいぶ亡くなったし……」っていう話を聞いて。そこで「我々も被災者って言われているけど、沿岸部の人たちのために何かやれることはないか」っていう話になったんですね。

そうしたら千石さんが山元町でまちおこしのNPOもやっていらしゃるんですが、その総会に伊藤さんと母と僕で行くことにしたんです。総会では「どんな特産品をつくろうか」っていうテーマで話し合っていて、その中に金時草やいろんな野菜、白いイチゴやローズヒップとかが話題に上がっていました。そこにイタリアントマトが入っていたんですよ。それを見たときに、母が「これいい。これだったら6次化できる」って言ったんです。

6次化しなきゃ

母は元々農業も関心があり、農業改良普及員の資格を持っているんですよ。宮城県の女性第一号らしいですよ(笑)。大学研究員の頃に取得したって言っていました。その仕事はしなかったけど、農業や食に関することは好きで興味があったみたいで、もともと知見があったんですね。それで1次産業に興味はあったけど、ただ生産するだけじゃ無理だから、6次化しなきゃいけないっていうのはずっと思っていたんですって。

用途が広いトマト

トマトの用途は広いんですよ。生で食べるだけじゃないですから。葉物だとなかなかそうはいかないんです。僕は最初の段階では「トマト?なんで?」っていう感じだったんですけど。「もしやるんだったらトマトがいい」っていうのは「女性の意見」だったんですね。

毎日買い物をする女性だから市場価格も分かっているんです。普段から買い物しているからトマトが高いってことも、消費者のニーズも絶対あると分かっているんですね。「美味しいトマトを食べたいのよ、みんな」って言われて、なるほど言われてみればそうだなってなって思いましたね。

総会では結論として金時草をやることになって、イタリアントマトをやるっていう人はいなかったんです。それで我々で個人的に試験栽培してみようってなったんですね。そのときにNPOのメンバーで農業経験者の方と、伊藤さん母、僕、千石さんの5人で始めたんです。2012年の春から、試験的に千石さん宅の下の畑を借りて露地栽培で植えてみました。

仕事づくり、生業づくり、特産品づくり

最終的には「山元町の特産品をつくって生産加工販売までやれたら、復興につながるんじゃないか」っていう話をしていました。ハードの復興は行政がやってくれるけれど、ソフトの面での復興は「仕事づくりだろう」と思っていたんです。今でもそれが企業理念にもなっているんですけど、「仕事づくり、生業づくり、特産品づくりっていうのをやれねえかねえ、このイタリアントマトならいけるんじゃない?」って考えたんです。それで試験栽培をすることにしました。

路地でつくるとこんなに美味しい

生産に関する肥培管理とかは全部、山元町在住の農業経験者の方にお任せして、我々はほとんど仙台にいて、ときどき山元町に来る感じでした。それで収穫してみたら、美味しかったんです。「露地でつくるとこんなに美味しいんだ!旬の時期(夏)はやっぱり美味しい」って思いましたね。

そういった試験栽培を経て「イタリアントマトだったら良いね」って思えてきました。母の友人たちにも声をかけて聞いてみたら「いいね」って言ってもらって。女性の意見は完全に「トマトはいい」と。男性は「なるほど」って言うだけなんだけど(笑)。自分たちでも美味しいトマトを食べたいっていうのもあるし、これだったら復興を目指す作物としてはいいんじゃないかと。

しかも露地でできて、そんなに設備投資がかからない。「自分たちでやれる範囲からできるんじゃないか」っていうことで、本格的にやろうってなりました。そして次の年の2013年に会社組織として設立したんです。

最初は、実践社会塾の事業自体を発展させてこれ(イタリアントマト栽培)にできるよねって言っていたんです。農業という1次産業だけじゃなくて6次化っていうところで考えたときに、障害者の入る余地があるんですよね。農作業だけなくて他のいろんな作業が発生するよね、と。販売やりたいっていう子もいるだろうし、配達とか箱詰めみたいに人と会わない仕事が良いっていう人もいるだろうし。

「就業の場」「生涯現役」

そういう事業モデルをつくれたらいいんじゃないか、っていう話にもなったんですよ。障害者の事業も継続しつつ、イタリアントマトの1次産業も新規で立ちあげて、全部一緒くたにやろうって。それは僕がこれまで関わってきたことがトマト事業に全部集約できるんですよね。食に関わる仕事も楽しいし。それで僕もだんだんその気になってきて。「就職も決まんねえし、やってみっかな」っていう感じになりました。

そういう経緯があったので障害者とか若者の「就農の場」っていうのもうちの柱の一つに入っているんですよね。それから「生涯現役」っていう柱があります。60代、70代の人たちも引退して終わりではなくて、生業をやって若者たちと働いて、ノウハウを教えられるところは教えて、生涯現役を目指していかないとけないだろうという考えですね。

だから中高年の働く場という意味合いもあるし、若者や障害者も働く場があるっていうのが大きな柱、企業理念なんです。もちろん復興支援としての「地域農産物のブランド化」っていうのを大きな目標としています。若者、地域、中高年っていうのがそれぞれ自立を目指していかなければならない。それが地域の発展につながるんじゃないかと思っています。

最初から6次化を考えていた

2013年に山元町に移ったんですけど、配達なんかもあるので仙台との行ったり来たりの生活です。2013年に設立して「まずは生産からはじめねえと何も話が始まらねえ」ってことで、イタリアントマトの生産を始めたんですよ。最初始めたときは仙台在住が11人、山元町が3人でしたね。声をかけたら賛同してくれた人がけっこういて全部で14人いました。最初は生産だけをやっていて、次の年から加工をはじめました。

同じ町内の田所食品さんというブドウ液つくっているところを紹介してもらい、2年目からジュースをつくるようになりました。最初から6次化を目指していたんです。団塊の方たちが経営者さんたちだったので「1次生産だけじゃ採算合わないよ」っていう、経営感覚がありました。目的が生産じゃないんですよ。やはり都市部に住んでいる人たちにも沿岸部の支援をしたいという気持ちがあったんです。

実際に動くのは難しい

(震災直後の)最初の頃はいろいろ瓦礫の撤去とかありましたけど、次第に個人の入れる余地はなくなってきたんですよね。それもあって「仕事づくりして、生業づくりして、それが山元町の復興につながるのであれば、そんな良いことはないよね」っていう流れです。町場で被災した人たちは自分たちの生活は安定したからこそ、沿岸部の人たちのために何かやりたいよね、と。でも実際に動くっていうのは難しいですから。

遠大な目標がありまして、こういう(イメージ図)観光農園をつくりたいなっていうのが最終目標なんです。やっぱり人に来てもらえるような場所が欲しい。例えば体験型とか、加工場とか、貸し農園とかやって最終的には山元に来てもらって、ただ来てもらうだけじゃなくて人が減っているんだから定着してもらわなきゃいけない。

これは今でも夢なんですけど、ちょっとずつ実現していけばいいんじゃないかと思っています。ほんとうにこれ(イメージ図)はやりたいことで、直売所と貸し農園は今年からできるかなって思っています。トマト狩りを始めようと思っているんですけど、これ(写真)は去年のトマト狩りの様子です。

ここで生きてくるのか!

最初の年の夏場過ぎた頃、8月頃にトマトに病気が出たんですね。今思えば葉かび病とか灰かびなんですけど、それが蔓延してひどい状況になりました。その状況に責任を感じてしまって、生産を見てくれていた方が辞めてしまったんです。そうなると結果的に農業経験者が誰もいないんですよ。もちろん僕もやったことないし。

でも初年度から出荷をしていたこともあって、どうにか対処しなきゃいけなかったんですけど、対処法も分からない状況でした。それで農協に行ったり、(農業改良)普及所に行ったり、近所の農家の人に聞いたり、紹介してもらったりして聞いて回ったんだけど、なかなかちゃんと教えられる人っていないんですよね。ただ、病気が蔓延しちゃったらもうその年は何もできないんです。

それでもなんとか生き残っている部分を最後まで収穫して、そこそこ採ったんです。それを出荷したところ、仙台の人たちから「地元産でこういう味だったら欲しい」っていってくれる飲食店さんとかもいて、幸い「美味しい」って評価してもらいました。

地元の人たちといっしょに

だからなんとか(次年度以降も)継続したいよね、じゃあ次の年の作付けどうしようかって話になった時に、「じゃあ僕が生産責任者やりますよ」って手を挙げたんです。みんな今でも仕事していらっしゃったりしていて、自由に動けて専念できるのは、65歳で定年になった千石さんと僕くらいなんです。仙台の人たちは例えば販売の面で協力してもらったり、週末に来てもらって手伝ってもらうとか。やっぱり地元の仕事づくりをしたいんだから、地元の人たちをパートさんたち探して雇用しないと意味ないですしね。結局、生産の部分を担う人が僕しかいなかったんです。

化学の知識が生きた

僕、興味はあったんですよ。今の農業って理系的、化学的なんです。土壌分析したり、pHがいくらとか、硝酸態窒素がなんだとか、必須アミノ酸がなんだとかね。組成式を見れば大体わかるんですよ。オーガニックなものももちろんあるけれども、例えば生石灰と消石灰と苦土石灰とあって、何がどう違うのかとか(普通は)分からないじゃないですか。(農業)やったことないし。でもそういうときに化学の知識が生きたんですよ。そういう意味ではすごく楽なんです。自分の学んできたことが、「ここで生きてくるのか!」って思いましたよね。

ただ、その違いは分かっても「それを畑にいれたらどうなるか」っていうのは実際に勉強しなきゃいけなかった。でも農業を体系的に学べる機会ってほとんどないんですよ。本やネットなんかでは枝葉のことしか書いていないので、体系的に学ばないと分かんないんです。それで農業大学校に社会人向けのコースがあって2015年に半年間、月に一回習いに行きました。去年(2016年)は中級コースもあったんで受講したかったけど、定員ではじかれちゃって受けられなかったですね。僕にとっては座学がすごく勉強になりました。午前中に座学をやって、午後は畑に出てやるんですけど、もうその頃には(生産を始めて)3年目くらいでしたから(畑作業に関しては)大体分かるんですよね。

それに農業大学校だといつでも、何でも聞けるし。それがすごく良かった。今もちょこちょこ聞きに行ったりしていますよ。基本を知らないので、そこから勉強しないと。でも化学の部分に関しては分かっていたので楽でした。農業大学校の初級コースなんですけど、最初に土壌学とか肥料の話になったので、ほんとうに元素記号ばかりなんですよ。CO2とか、窒素固定量が、窒素と炭素が、とかね。そういうところにすごく生きていますね。結果的にすごくラッキーだった。かなり遠回りしたけどね(笑)。

創業期は大変なんですよね

農業生産なので最初の何年かは大変なんですよ。うちの事業モデルだと夏場に収穫して、それをジュースに加工して販売するんですが、その売り上げの方が大きいんです。生トマトは市場出荷せずに直接販売のみなので、売上で言ったらたかがしれているんです。生トマトって薄利多売なんですよ。だから加工品でジュース販売が必要になるんです。ジュースの方が売上の割合も多くて、(売上全体の)3分の2くらいにはなります。

株式会社へ移行

夏場に採れたやつを加工して、秋くらいにできてきて製品になって、それを次の年の夏くらいまでかけて売るんです。そうするとお金が入ってくるのがすごく遅くなってしまう。その期間がきついわけです。だから販路を拡大しなきゃいけないし、生産も安定させなきゃいけない。そういう状況ですから、ついていけなくなって辞めてしまった人もいますよ。創業期は大変なんですよね。企業組合ってかたちで立ち上げて、半分は既に辞めて、半分は残っている状態です。そして最近、株式会社に移行しました。

発達障害の子が働いているというわけではないんですが、実践社会塾で教えていた子が二人、高校や専門学校は出たけれども就職決まらずに家にいるっていう子がいて、親御さんからの問い合わせもあって一人ずつ、個別対応で作業していたことはあります。一人はその頃、状態が悪くて引きこもり気味になっていたんですよね。就職もアルバイトも決まらないからどうしたらいいのか……っていう状況で。

「とりあえず農業やらねえ?」っていう感じで誘って、来てもらうようになりました。一緒に作業しているとにこにこ笑っているんですよ。気も紛れるみたいです。ここ(畑)って街と違って余計な人いないじゃないですか。(その子は)最終的にアルバイトが決まって今は働いていますよ。

イタリアントマト

イタリアントマトは肉厚で水分が少ないんです。日本のトマトは水分が多くなるように作られているんです。品種改良を繰り返して生で食べて美味しい、水分が多くてジューシーになるようにつくられている。でもイタリアントマトは逆なんです。そのまま潰すと濃さが全然違って、どろっどろになるんです。うちのジュースも煮詰めてもいないし濃縮もしていないんですけど、けっこう濃いんですね。

だからソースつくりもやりやすいんです。だからトマトじゃなくて、「イタリアントマト」なんです。新聞とかの取材でも必ず「イタリアントマトって記載してくださいね」って言うようにしています。この辺だとイタリアントマトの「カラフルミニトマト」って言われているものは、あまり作っているところがないんですね。

それも売り文句になるかなと思っています。山元町ではあまり(トマト栽培を)出荷でやっているところはなくて、大規模イチゴ屋さんとかがトマトをやっているっていうところはあります。イタリアントマトでは(生産しているところは)ないですね。うちは露地だから、味的にはこいつが一番美味いと思っています。

加熱すると美味しい

一番近くで同じような品種をつくっているのは(隣町の)新地にありますね。うちと同じ品種もありました。イタリアントマトって、加熱するとものすごく美味しいんですよ。試験栽培するときは知りませんでしたね。生で食べて「美味しいよね」って言っていたくらいで(笑)。真骨頂は「調理」なんです。そのため去年は催事に一生懸命出て、実演販売とかしました。

炒めたトマトをパンに乗せて売ったり、スープも出したし、トマトの芋煮っていうのも出したし、いろいろできるんですよ。だからそういう食べ方の提案もしてきたいと思っています。日本人はトマトって言ったら「生」っていうイメージがすごく強いけれど、ヨーロッパではほとんど加熱して食べるんです。豊かな食文化として広めていきたいなと思っています。

「美味しいね」

生産をやろうと決めたきっかけは、最終的にはつくったものに対して「美味しいね」って言ってくれる人がいっぱいいたからなんです。ジュースは2年目ですけど、ジュースも「美味しいね」って言ってくれて。「まずい」って言われたことないんですよ。それって「こんなに良いことないな」と思っています。

「つくった甲斐があるなあ」って思います。ニッカウィスキーの竹鶴政孝がいるじゃないですか、あの人って最初ウィスキーつくって「まずい」って言われるんですよね。あれでよく、つくり続けられたなあと思います。

「美味い」って言われるから嬉しいしやる気になるし、僕だったら「まずい」って言われたら続けられたかわかんないですね。もともとトマトに興味があったわけじゃないんです。料理も少しするので食べるのは好きでしたけど(笑)。旬のものが美味しいと感じるようになるのは自分でつくり始めてからですね。

旬を感じる

食材一つ一つ全然違うことも知りませんでしたしね。ほとんどの人は知らないんですよね。旬がいつの時期かというのも知らない。「ほんとうに旬の美味しい時期があるんだな」ということを知りました。そういうことも広めていきたいことの一つですよね。沿岸部は元々砂地なんですけど、砂地ってトマトにとってはいいんですね。トマトは水はけが良い土地に良く育つし、美味しいんです。

水はけが悪い場所だと根腐れおこしちゃうんですね。あいつは(笑)。それはたまたま利点になりましたね。それに山元町は宮城県でも一番南側なんで温かいんですよ。

僕の実家は仙台泉区なんですけど、泉区は雪がばっさり積もっても山元町は何もない、みたいなことは良くあるんです。それ(気温の違い)だけでも全然違いますよね。育ててみたらうまく育つな、というのは分かった。でもそれがなぜかって考えたら、それは砂地だからなんだ、っていうのはあとで気づきました。津波で海水をかぶっていますけど、行政の方でだいぶ除塩していました。

特に田んぼや畑地として使っていた地域を優先的にやっていましたね。割と(震災後)最初の何年かでずいぶん田んぼや畑は除塩が進みましたね。我々が2013年に畑を借りたときには除塩が終わっていたのでラッキーでした。それにトマト自体がもともと塩分に強い作物なんです。多少塩分が土地に残っていても大丈夫。だからいま、地下水を4mくらいポンプでくみ上げて流していますけどそこに多少塩分が入っていても大丈夫なんですね。

在庫置き場で寝泊まり

生産の面白さ忙しい時期とそうでない時期があるんですけど、忙しい時期はこっち(山元町)に入り浸ったりしています。会社として借りている古い平屋があって、そこが在庫置き場兼僕の寝泊まりする場所になっていて、一応事務所って呼んでいますけど(笑)。寝泊まりしているときは朝8時くらいから農園に行って。そんなに早くやるわけじゃないです。

早どりしたからって良いわけじゃないしね、あんまり。作物によって早くとるものもあります。例えばトウモロコシは早くとらないと呼吸しちゃって糖分を消費して甘さが落ちるって言うんです。それは作物によりますね。例えば農協出荷とかの目的があれば早くにとらなきゃいけないかもしれません。農閑期は仙台に戻っています。

とは言っても作業があるので週5くらい通っている感じですが。配達は仙台方面が多いです。ある程度まとまった量だったら直接届けるようにしています。あとは営業に行ったり、対外的な対応もやります。社員はいないんですよ。株式会社にした時点で7人だったんですけど、そのうち3人は別に仕事をやっていらして、あとは僕と千石さんと伊藤さんとうちの妹だけなので。

妹が経理兼デザイナー

商品のデザインは、うちの妹が経理兼デザイナーでやっているんです。それと(働いているのは)パートさんですね。営業は福祉大の頃に、ある程度は慣れているんですよね。面白いのは、保険とか福祉って目に見えないじゃないですか。そういうのを売るっていうのはすごく難しいんですよ。でもこれ(イタリアントマト)はすごく分かりやすい。製品を持っていけば良いので。

「これ食べてください」「これ飲んでください」って言えばいいだけですから。売る方も、買う方も分かりやすいんですよね。「美味いね」って言ってもらえるとやる気にもなりますし、逆に来年もちゃんとしたものつくらないとっていうプレッシャーが、なくはないですけど(笑)。ジュースに通常版とプレミアム版をつくったのは、味の違いも出たしすごく良かったですね。

プレミアム版は旬の時期の完熟したやつだけ集めているんです。5種類くらいのトマトを混ぜているんですけど、この3年間でいろいろ試行錯誤した結果の比率で混ぜ合わせています。ブレンドが大事。甘みだけが強すぎてもそんなに美味しいと感じないんですよ。すごく難しかったんですけど、うちのパートさんも含めた女性メンバーに飲んでもらいながら配合もいろいろ決めました。

単位面積あたりの収穫量をあげる

今年の糖度とかいろいろとバランスを見ながらつくりました。通常版との味の違いが大きくなって良かったですね。うちの課題は生産が基本なので、単位面積あたりの収穫量をあげなきゃいけないんです。やっぱりもう少し手をかけて、追肥と病気対策をしなきゃいけないなと思っています。流石に初年度みたいに病気が全面蔓延するっていうことはありませんね。初期防除をすればかなり違うんですよ。最初の年は(漫画『ナウシカ』の)腐海の森のようになったんですよ。

胞子がハウスの中に飛び交っているようなね。今となっては、それだけ広がる前に手当てをしなきゃダメなんだと分かります。当時は基本もわからないし、病気の種類も知らなかったですからね。収穫って、とればとっただけ新しくなるんですね。実がなっていると着果負担がかかるから、どんどんとってやれば夏場の時期はどんどんどんどん(実が)出てくるんですよ。

だから今年は人出も増やしてやりたいなと思っていますね。生産量増えれば売り先も広がるじゃないですか。もう少しいくと採算ベースに乗るな、という感じです。そこまで頑張らないと。特に生産の面白さっていうのはありますよね。営業は大変です(笑)。交渉もあるしね。対面販売でお客さんと接するときは面白いですよ。反応がすぐ分かるから。ジュース飲んでもらったりすると「なにこれ!」みたいになったりするのがすごく楽しいですよね。

「田舎」とは少し違う

僕の出身である仙台に比べたら山元町は田舎ですけど、「規模感」が全然違うなと思います。仙台市は100万人都市、山元町は1万3千人。100分の1なんです。仙台で福祉をやっていた頃は関わる人たちもその都度全然違っているんですけど、山元町に来るとプレイヤーが大体同じなんですよね(笑)。

一人何役もしていて、昨日会った人と別の会合でまた会ったり。そういうのは面白いと思いますね。小さくまとまっている規模感の方が事業者としてはやりやすいんですよ。商売をしようと思ったら仙台くらいの規模感が必要なんですけど、生産拠点としての山元というのはすごくやりやすいし、イベントとかも企画しやすいんです。観光とかもやりやすいし。だいたい顔合わせれば「どうもね。この間のあれどう?」っていう感じですから(笑)。震災があって、津波があって、特に沿岸部のコミュニティが破壊されちゃったんですよね。

人間関係だけじゃなく部落ごと流されてしまったところもあります。これは僕の完全な私見なんですけど、震災によって、結果的に外から入る人も割と入りやすくなっている状況があると思います。(震災後)ボランティアにせよ、支援にせよ、入らざるをえなかった、受け入れざるをえなかったという状況があって。よく田舎だと外から来る人が歓迎されないというような状況があるんですけど、沿岸部にはそれがなくなって入りやすいんです。

例えば沿岸部でイベントやりましょうといってやるときに、半分くらいは外から来た人が会のメンバーなんです。同じような年代の、30代から40代くらいで新しいイベントやりたいねって話をするときって、山元町出身の人って意外に少ない。そういう意味では外から来る人たちが結果的に多くなっちゃって、それはこっちとしては良かった面でもあるんです。一般的な「田舎」とは少し違うなと感じます。けっこう外から来ている人多いよね、って思うことがありますね。

復興って活気が戻ることだと思うんです

人が定着して、生業がないと、人口は減る一方なんですよね。地域としても元気はなくなっていくわけです。僕らもそうですけど、定着して何かをはじめるっていうのがきっかけになるんですね。そこを中心として人が集まってきたり、新しくはじまったりするので、まず人が来てもらうこと、そのうち何人かが定着してもらうことっていうのが大事だなと思うんですよね。

そうすると地域でもいろんなことをできるようになるし。それが最終的には復興につながるんじゃないかなと思っていますね。僕が思うに復興って活気が戻ることだと思うんですね。僕は震災前の山元町をほとんど見たことはないんですけど、今は沿岸部を走っていても誰もいないし、家の基礎しか残っていないし、トラックしか走っていないんですよね。さみしいんです。

誰もいないし風しか吹いてないし。ある程度「まちに活気あるよね」って言われるようになるのが復興だと思うんですよ。それにはやっぱり長くかかると思いますし、ちょっとずつ地味にやっていくしかないだろうなあと思っています。(復興が)大型商業施設をダーンと建てることではないと思っているので、生業づくり、仕事づくりから始まって、だんだん人が来るようになって賑やかになって、「あそこ行くといつも何かやっているよね」みたいな感じになっていくのが一番の理想かなと思っています。

関連情報

株式会社スルーエイジ
http://suru-age.com/